2011年12月1日木曜日

老司校区を知ろう 5

第5回 観世音寺と老司瓦
~府の大寺「観世音寺」の発願と創建~


1.斉明天皇と筑紫

661年7月、斉明天皇は唐と新羅に滅ぼされた百済復興
のために、倭王権の軍勢を率いて飛鳥から筑紫に至りながら、筑後川中流域の朝倉橘広庭宮(朝倉市)で崩御した。以後、息子である中大兄皇子(のちの天智天皇)が指揮をとる。
663年8月、朝鮮半島の白村江で倭・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗、百済は完全に滅亡し、倭国は百済の亡命者を連れて朝鮮半島から完全に撤退。
671年までの間に、天智天皇は観世音寺建立を発願。
2.観世音寺の創建 (諸説あります)

◇創建7世紀説

上帯・下帯の唐草文から天武天皇11年(682)貢納の
大鐘、現存する梵鐘の可能性が高い。
朱鳥元年(686)に筑紫に運ばれた川原寺の伎楽。封200戸の施入。
老司式瓦(観世音寺の創建瓦)は飛鳥の川原寺(天智天皇の時代に創立)式を原型とする。
川原寺と観世音寺の伽藍の類似。
→朱鳥元年に観世音寺伽藍完成、寺院活動開始。
天平18年(746)6月18日に玄昉を導師として供養が行われたという「扶桑略記」や「元亨釈書」の記録は本尊の完成を意味する。

◇創建8世紀説

天平18年(746)6月18日に玄昉を導師として供養が行われたという「扶桑略記」や「元亨釈書」の記録を重視。
発掘調査では、7世紀時代の寺院の跡がみられない。
朱鳥元年(686)の封200戸施入は造営着工の為。梵鐘の存在から、7世紀末頃に本格化。
老司式瓦は藤原宮(694遷都)の瓦を原型とする。
→和銅2年(709)元明天皇、完工を督促。養老7年(723)沙弥満誓の太宰府赴任を契機に天平7年(735)府大寺
読経の頃には主要部は機能。疫病流行や藤原広嗣の乱などで中断、天平17年(745)玄昉下向により発願から80余年を経て完成。
(「府の大寺 観世音寺の創建を探る」シンポジウム資料より)

<老司公民館だより 2011年12月号>